昭和41年05月25日 夜の御理解
元気な心で信心せよ。元気な心というのはどう言う様な心でなからなならんだろうかとこう、只普通で言う元気を出すというのでは、そういつまでも元気で続くもんじゃない。必ず疲れが来る。教祖の神様が仰る元気な心というのは、疲れない心いつも生き生きした心、そういう心を持続する、持ち続けるという事はどういうことかというと、結局有難いと言う心だと私は思う。ですからその有難いという心を体得さして貰う信心が必要である。ならその有難いと言う心を頂く。
それを体得するという事は、どういう事かと言うと、どういう事だと思うですか。有難いという事がわかる事は、どう言う様な事か。それはね私共の周辺にある一切の事がね、それは痛い事であろうが痒い事であろうが、ね、いうなら降ろうが照ろうが平穏無事であろうがね、これ一切神愛であるとわからして頂く事だとこう思う。一切がそりゃ困った事でもなからなければ、難儀な事でもない、全て神様の愛の心の現れであると分らせて貰う時、そこからどういう中からでも有難いというものが生まれて来る。
まぁこんなら言うたら、えらい簡単のようですけれどもね、その実は難しいとこなんですね。だから私がいつも説く所ここなんですから、こりゃもう道理の上では皆さんも分っておると思うですね。そうでしょうがね 痛い痒い降っても照っても、みな神様の氏子可愛いという思し召しの表現なのだという事。ところが私共の場合にはどういうものであるかというと、やはり降るよりもお天気の方がいいしね、痛い思いをするよりも、心良い気持ちになることの方が良いしね、
ですからどちらも、確かに神様の愛の表現ではあるけれども、神愛ではあるけれども、だからその神愛を、ほんとに神愛とわからして頂く為にです、私共がひとつ叩かれても神様の愛情だと、ね、いうそのところではなくてですたい、ね、本当に神様に愛し続けられる、神様に可愛がられどうしに可愛がられるという、おかげを頂く事に焦点を置かなくてはならないという事、ね。
お気付頂くお気付だって神様のやはり神愛の現れ、その度にしゃんとして、一段信心を飛躍すればいい。私共の場合はこれで繰り返しこれで繰り返し、いうならば椛目の信心は大きくなったと言うても過言ではない位に、様々な難儀の中からその難儀を難儀とせずに、神愛として受けて、今朝の御理解ではないけれども、叩かれるたんびんに良い音色が出ると、締め上げられれば締め上げられるほど、丁度締め太鼓のようなもの、ね、と言う様な御理解を頂いて、最後にいつまでも叩かれておる。
叩かれて良い音色を出る、出すというよりもね、叩かれずにおかげを頂く道はないかというが、最後の御理解の締めくくりどころだったですね。そこで私共がんなら、その元気な心で信心せよと、元気な心でというのは、私共の元気なげ出すという、あれではないあれは必ず疲れるって、ね、疲れた心におかげはない。元気な時だけおかげを頂いて、疲れた時もうおかげを落とすならもう同じだと。そんなら教祖の神様が仰るその元気な心というのは、有難いという心なんだと。有難いという心で精進する。
有難いという心で奉仕をする。これなんだ、ね。それでんなら有難いとほんなら頂ける心を頂く為に、どういう事になったらよいかというと、一切これ神愛なりとこう分らして頂く事だと申しましたですね。これ一切神愛だと、まぁそれだけなんだから、えらい簡単のようだけれども、その神愛に今度は又問題があるのであると、分っておるけれども、ね、わかっちおるけれどもやはりそこんところが、神愛としての実感ね、叩かれて椛目の人達の場合なんか、叩かれてしゃんとする。
もう、の前が真っ暗になるような事があると、ぱっと信心の光が灯る。これはまぁ本当に椛目で信心の稽古をしておる人達は、確かにそうだというふうに感じるですね。だから今朝から私が言うておる事は、もう叩かれんまんまに、おかげを頂けれる道があるんだとね、叩かれる事もですね、それこそ憎うてこの手が当てられるやろうかという親の思い、神愛をわからして貰う時ですね、その叩かれる手にでも縋って、神様有難うございますと、言わなければおられないのだけれどです、ね。
本当言うたら叩かれんまま、私はおかげ頂けれる道があるようだと、私、それを思うですね。そこで皆さ、な、叩かれんですむ道といのは、どういう道であろうかと思われるですか。どういう信心であろうと思うですか、いわゆる四代様がおっしゃるね、実意をこめてすべてを大切にという事になる。今度は容易すうなってくるでしょうが。ははぁもうそこん中に一切含まれて来る、そこから元気な心が生まれてくる。そこから有難いとうい心が生まれてくる。
そこから愛し続ける続けられるところのおかげね、可愛がられながら、成長の出来れる道、というのが開けてくるんだという事。それは生身を持っておる凡夫の事でございますから、どこにお粗末御無礼があるやらわかりませんけれどもです、そういう信心が頂かれていく時ですね、その愛の心の中から、例えばお気付というおかげになってまいりましてもですね、それなんかは、もうひとつの日頃可愛がられとるその、なんと申しましょうか、その余波っていうかね。
余った位な有難さでその事を通り抜けていけれると言う様な気が致します。今日丁度お昼をすましておりましたら、福岡から杉山フサエさん、それから杉山一郎さんの奥さんと二人で久しぶりにお参りしてきた、そいで、あなた達は秋永先生のところにお見舞いに行かれたんですかと、それがあなた昨日連絡があってから、行こうと思ってから母にそう申しましたらね。
その母が申します事ですたい、お見舞いに早よ行ってくんな、けども行く前に椛目に寄って、そしてから回り道になるけども椛目にお礼に出てからお願いしてから、そして行ってくれせんの。もう本当にあ沢瀉母から、信心の無か母から教えられてからち、からとここで笑って話すのを聞かせて貰ってです。有難いなあと思うんです。れはねやっぱりあの杉山三男さん、いわゆる自分の法の息子やら、いわゆる娘婿である所の秋永先生やら、ふみさんあたりの日頃の信心というものを見て聞いてきておるからなんですね。
神様の信心、金光様の信心というものをです本当にもう、実際に見たり聞いたりしてから、さぁここにお参りしてこんけれども、それがわかっておるところに、どうしたこっちゃろうかね、金光様にお参りしてから怪我してからといわずにです、ね、勿論それが思ったよりも傷が軽るかったげなという 電話くらいでは通知を受けておるに違いありませんからね、そこでその喜びがそう言わしたのかも知れませんけれども、私しゃ有難いなあとこう思うた。いわゆる、そういうあり方なんです。
私が今日言おうとする所はね、成程福岡から椛目その中間にく二日市ですから、そりゃもう倍遠い道になる訳ですけれどもね、先に椛目にお参りお礼申さして頂いてから、そして行ってくれと申しましたからと言うて参って見えられた。そういう例えば信心の無い人達が、そう言う様なですね、そういう信心が育っていったら、今日私が言う神様に愛し続けられる信心になって行くような気がするんです。
これも今日あの、吉井のざいの方から参った来ます、原さんという方がおります。お母さんがはじめ参って来なさった。息子が酒乱なんですね。酒を飲む普通はとっても良い職人さん大工さんなんです。けれどもお酒がこれに入ったら最後、もうトラ、オオカミでもむこうていこうていうごたるふうになって、もう親でも何でも切れモノ振り回してからのいわば酒乱ぶり、酒が覚めるたらもう猫んごと、おとなしゅうなる、ね。
それがいよいよ大変な心配事から導かれて、ここに参って来なさった。お母さんとそれから、私が嫁さんにも参った来いと言うて、そのまあ嫁さんとおかあさんとお参りさして頂いてから、もう不思議にその酒乱がおかげを頂いて、も現在全然止めてしまった訳でないけれども、けして【 】は飲まんという程におかげ頂いておるとい訳なんです。ところが先生、まぁだ困る事の起こりましたと言うて、今日参って来ましたですもん、まぁだ困る事ちゃどうした事ですかちゅうたら。
この頃はおかげで酒も飲まんな、ほんな飲んだっちゃもう少しばっかし。ところがあなたこの頃からその、不振を請け負うちから建てましたところが、ちょっとしたところに因縁をつけられちから、あぁたお金をその相手が払わん。だからこちらも大工さんも全然儲からんでもよいけれども、受けとるからにゃ他の職人、佐官様々な方に支払いせにゃんけん。せめて支払うことなっとん、まぁ貰わなければ、私の方が立ち行かんから、まぁ困っておるところに、その主人が申します。
あの椛目の金光様に参ってお願いして来てくれ、てその申しますとこう、ね。なら息子というひとはお参りした事はない。母親が参って来たり、嫁さんが参って来たりして、そういうおかげを頂いておるとね。だからあんた椛目の金光様、いつもバイクで通るそうです。だからあすこん前を通る時には、いつもあすこからこう頭を下げちからお参りすって言われるそうですね。
だから私は申しましたね。只あなた方がおかげおかげといておかげを頂く事は、本当にそれこそ医者も、薬でもどうでも出来ない事でもおかげ頂いたけれどもです、まだそれよりもましたような難儀が次に起きてこようがと私は申しましたね。だから金光様の御信心はどうでも、真実本当のおかげを頂かして貰わなければならん。あのその事がいわば御神縁であってね、その御神縁が、只その御神縁が、本当の御神縁という事になってこなけれはいけんね。
それが一家中の、つぎの助かりという事にもなって来るようなおかげになっいく為に、信心の稽古をして貰いなさいて。もしその事を私が言うたら、まぁそのあんた方が困らんで済む様な所まで、良かというならば私もお願いさして頂こうと、自分の儲けは投げ出して、そして他の職人さん達にいわば、大工達に佐官達に支払うという事の為なら、神様が聞いて下さらん筈がない。
自分が儲かろうという事だったらなんだけれども、そういう心かけならそういうどころだけなら私が、まぁいうなら請け負うておかげ頂こうて、という意味の事を申しましたから、大変喜こんで帰ったんですけれども、まぁその喜ぶとに早かから、とにかくまぁそれまでの信心の稽古をさして貰うのが、その事のおかげを頂くのじゃない。いわば本当の信心の稽古に通うて来て。おかげはわが家で受けよという、おかげになっていかなければならんとこう申しましたがですね、ここへは信心の稽古に通うて来る所。
おかげは我が家で受ける。ここには信心の稽古に通うてくるのは、どういう事を稽古するかと、今日私が申しましたような事をです、いわゆる稽古の対象としてからね、いわゆる元気な心で信心せよとおっしゃるが、元気な心とはどう言う様な心だろうか、元気な心とは有難い心と仰った、なら有難い心になるためにはどういう事だろう。私共の周囲の一切一切、それはもうどう言う様な事の中にあっても、それが神愛の現れである事が、を聞けば聞くほど、神愛の表れである事が分る。
そこから有難いものが生まれて来るんだと。そりゃ叩かれても撫でられても、降っても照ってもそれが神愛とわかる所にです、有難くなるのだけれどもお互いの究極の願いというのは、本当いうたら叩かれたくないね。降るよりも照っとる方がええ。いわゆるてっとるというがまぁ天気である方がいいとこういう、ね、そんならそういうおかげの頂き続けられる道をというのは。
どういう道なのかそれはいわば、実意丁寧神信心であり四代様が仰る所の実意を込めて全てを大切に、自分の足元の事の中から。昨日私の方の姪の泰子がお届けしておるんです。あの人にとってはひとつ難儀な問題。ところが最近そのなんていうですかね、あの子供の家をずうっと回る家庭訪問があった。そいでその子供さんの親さんのところから、いわゆる先生にて言うてから進物を頂くのがですね。
もうとにかくたまがった事は靴下がおいかったという訳なんですね。自分の足元のことだから泰子さん、足元を見つめなさい泰子さん足元を見つめなさんというて、神様が言いござるような気が致しましたと。自分のところ足元を見つめまして頂いたら今、自分が難儀と感じておる事もです、ははぁここんところが見つめ足りんのだと言う様な事が、分ったと言う事を、昨日お届けしておるんですよね。
ですから結局そう自分の足元のところにです、実意込めて全てを大切にしていなかったて。そこに気づかして頂いたという事になる。この実意丁寧神信心がです、全ての事を実意を込めて、大切にしていくという事がです、自分の信条になる、それが自分のものになる。そこに私はお道の信心の信心さして頂く者の生き方ね、お道の信心の信心ぶりというものがある。そういうあたしゃ信心を体得して、自分のものにしていかなければいけないと思うんです。
どうぞ。